プロフィール


写真家:吉田隆一 

 

1952:目黒区大岡山に生まれる
1975:明治学院大学仏文学科卒業・
             卒業後約1年間アメリカを放浪。写真を撮る。
1980~海外取材(マリクレール、シグネイチャー、単行本旅行記など)
1989:トルコ、シリアを経て東欧を旅行(この年の暮れベルリンの壁がくずれる)
2006:大野一雄さんを様々な視点で撮影した47人の写真家が集まり、百歳の誕生日を                
     祝う大野一雄写真展(新宿ほか6か所開催)に実行委員として参加。
        http://kazuoohno-exhibition.com/
   http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2006october/ohno/index.html

     また同時に発売された写真集大野一雄の世界「秘する肉体」出版㈱クレオ 
     編集作業にも関わる。http://www.creo-pb.co.jp/
 

2008:大野一雄写真展(デユセルドルフ)実行委員として同行。

     展覧会の後、ベルリンに行き20年前のベルリンと比較する写真を撮影。     

 

2010:4月13日 葉山自宅にて永眠(享年57歳)

吉田隆一さんへ  「大野一雄を通して」   志賀信夫(舞踊批評)


出合い

  2000年頃、大野一雄の舞台を見にいくうち、口髭の男がカメラを構えているのに出会った。笑いかける笑顔が印象的だった。よく知る舞踏専門のカメラマンの一人ではなく、もっぱら大野一雄を追っているようだった。

  1999年から大野一雄の研究所でのアトリエ公演が始まっていた。観客は、直接連絡をもらう人とその連れで40~50名。毎回通っていた僕は、終焉後のパーティでそのカメラマンと話をするようになった。それが吉田隆一だった。僕自身も仕事で写真を撮ることがあるため、行くたびに写真の話題なので、ビールとともに雑談するのが常だった。

  そして2003年、大野一雄が岐阜県の養老天命反転地で踊るときに、彼の車で一緒に行った。荒川修作の設計した、天と地が逆さになったような公園だ。大野一雄の地方公演には、熱心な研究生たちが賭けつけるが、特に野外の場合、車に数人が相乗りして行くことがあった。そのときも吉田の車に4、5人乗って行った。免許のない僕は、せめてナビ代わりと助手席に座った。早朝新宿集合で日帰りという強行軍だったため、深夜の帰路は彼を眠らせまいと話し続けた。新宿に1時過ぎ。それから葉山まで帰った彼は3時すぎだったろう。

  話していると、その頃、少し付き合いが始まっていた仏文学者、巌谷國士の弟子だとわかった。僕も仏文出身で関心も共通する。それで親しさが増した。大野のアトリエ公演がなくなってからも、大野一雄の参加する舞台や研究所でイベントがあると、必ず会うようになった。2004年には再び彼の車に相乗りして、田中泯のフェスティバル、ダンス白州を見に行った。僕が企画して池の上の小さいスペースで舞踏家、井上みちるに踊ってもらったときも、写真を撮影してくれた。

  大野一雄がいよいよ舞台に立てなくなり、さらに寝たきりになってからは、僕が研究所に行くことも少なくなり、会う機会も減った。それでも、創刊した雑誌『Corpus』に大野一雄の写真を提供してもらったり、研究所で研究生が踊るときに会ったり、メールや電話などで時たま連絡はとっていた。そして昨年3月、吉田の住む最寄り駅、逗子で小さなイベントがあったので、そこから携帯電話に連絡したが、出なかった。


大野一雄とともに

 6月1日、大野一雄が亡くなり、お悔やみに研究所へ何度か訪れたところ、吉田の姿がない。絶対来るはずなのにおかしいと思っていた。そういえば、この前月、大野一雄の映画『魂の風景』の上映会にも来なかった。やがて4月に亡くなっていたことがわかって、愕然とした。まったく予想しない展開だった。酒はいつもビールで、特に過ごした姿は見ていなかった。煙草を旨そうに吸ってはいたが、海の近い葉山で健康的に暮しているという印象だったので、本当に驚いた。大野一雄の死は、予想されたとはいえ、1977年から30年以上見続けていただけに非常に辛かったが、それ以上のショックだった。一昨年の大野一雄の誕生日を祝いに行った友人からは、そのときに会ったのが最後だったといわれた。ということは、僕が最後に会ったのも、一年以上前だった。


  今はデジタル全盛の時代だが、吉田はフィルムカメラにこだわっていた。しかし写真をマニアックに語るのではなく、淡々と話す。踊りへの批評も厳しくはなく、研究生たちの舞台にも優しい目を向けていた。髭の男はシャイな人が多いが、彼もそうだった。


  岐阜と白州への往復、それぞれ8時間以上、色々な話をしたことが思い出される。それからも何度か車での旅の企画はあったが、実現しなかった。葉山の家に遊びに行く案、海岸でバーベキューという話題もあった。それなのに、初めて彼の家を訪れたのは、彼が亡くなって、この展覧会の写真選びのためになるとは、誰が想像しえただろう。

  彼の写真を見ていると、そのほとんどが大野一雄である。公演の舞台よりも、アトリエで撮ったものが多い。他の写真家には写せなかった大野一雄を実に大胆にとらえている。その眼差しは鋭く、そして暖かい。愛ある写真だ。だが、どうして大野一雄だったのか。吉田がどこで出会ったのか、聞いたような気もするが、はっきりとした記憶はない。考えてみると、大野一雄の舞踏研究所で出会った人々にそれを聞いたことは、実はあまりないのだ。


  ただ同じように、仏文出身で、あるとき大野一雄に出会ってしまった。そしてのめり込んだ。それゆえに、どこかつながっていると思っていた。そして、そういう、何かの思いを共有し、どこかでつながっている、本当に大事な友人を喪ってしまったという思いは、一年たった今も続いている。 (しがのぶお)

 

★「Corpus(コルプス)身体表現批評」創刊号 大野一雄特集 表紙写真:吉田隆一

http://d.hatena.ne.jp/CORPUS/20070202

 

写真家が舞踏に果たした役割 ――吉田隆一さんのこと   いわためぐみ

 

大野一雄さんに魅せられて、彼の写真を撮り続けた写真家は少なくない。 TH叢書NO28 「分身パラダイス」で、大野一雄写真展「秘する肉体」と写真集「秘する肉体 大野一雄の世界」を紹介したが、当時出展した写真家は47人。 細江英公さんの『胡蝶の夢』のように、単独の写真家の独立した写真集として、それぞれの写真家の写したさまざまな大野一雄さんを出版したら何十冊もの異なる視線の本ができあがるはずだ。
 大野さんに限らず多くの舞踏家の舞台には写真家の姿がよく見られる。舞踏に魅入られて舞台写真をとりたいという写真家は少なくない。それは、細江英公さんをはじめ、多くの著名な写真家が舞踏の素晴らしい写真作品を残していることだけでなく、舞踏の現場で写真をとるということの魅力もあるのかもしれない。劇場のみならず、ギャラリーや野外の土の匂いを感じることができる場面など、舞踏はその公演形態も作品同様に挑戦的で自由でもあった。ときには、舞踏の公演で本番が、まるで写真撮影会のようだ、と観客から抗議されることもある。企画側が、明確にコントロールしなければ、舞踏の公演は写真が撮影できる場所だと思われている節すらある。だから、舞踏の公演を企画するとき、写真のことは他の公演よりも配慮が必要だ。舞台写真を「記録写真」としてしかとらえない演劇畑の製作者は「写真なんて一人入れれば十分」と、記録者を特定して撮影を禁止する。「写真家のために公演しているわけじゃない」という。けれど、作品は作った側が傲慢に発表するものじゃない。批評のない分野は廃れるというが、こうして作品を受け取った側が言葉や映像や写真で作品から受け取った何かを発表していくことを肯定する側にいる私たちが、観客としての写真家とも大事な関係を作れるようにしていかなくちゃいけないんじゃないのか。歴史的な公演が、盗撮によってその価値を残された…そんな事例を「盗撮」という行為から、肯定することはいけないのかもしれないけれど盗撮してでも撮りたかったという撮影者の欲が、むしろ作品の価値として、評価のように感じられる。撮りたいと思ってもらえることを肯定したい。私はそういう気持ちで舞踏の企画にかかわってきた。そんな私の舞台写真観を育ててくれたのは、舞踏の現場。舞踏との出会いは大野一雄さんという舞踏家のその姿だったのだから。
 大野一雄さんが踊る場にはいつも何人ものカメラマンがいて、大きなホールの公演の本番はともかく、野外の公演などでは、にぎやかなシャッター音に答えるように踊る大野さんの姿があった。たくさんの拍手とシャッターの音にかこまれて、「サンキュー」と答える大野一雄さんの姿を思い出す。思い出しただけで、涙がこみ上げる。あの場に立ち会えたこと。踊りをみていたこと。それは素晴らしい作品を観たということだけじゃなくて、伝えたいことを踊る大野一雄さんの気持ち、記憶、想いを、受け止めた観客が、ありがとうの想いを大野さんに送ることで成立していた。
 拍手、花束、握手…そして、シャッターの音が、踊ることを肯定していたのだと私は思う。

 吉田隆一さんは、そんな大野一雄さんの写真を、本当に淡々と撮り続けていた写真家だ。私自身も大事な公演の場所だけでなく、プライベートな集まりで何度もお逢いした。観客に対しても配慮があり、公演写真を作品として撮っているというよりも、家族が大事な行事のときに写真を撮っているような、そんな視線の優しい人だった。
 最後にお逢いしたのは、2009年10月27日。大野一雄さんの103歳のお誕生日の日に、上星川の大野先生のご自宅だった。
 その日、私はお誕生日のお祝いに「六段の調べ」を演奏するためにご自宅にうかがった。
 さかのぼること数年前、大野研究所の稽古場で、マレーシアから勉強に来ていた壽板のダンサーたちのために「六段」を演奏した。そのとき大野慶人さんに「なぜに六段を?」と、驚いた顔をされたのだ。いつも優しい物腰の慶人さんが、とてもひどく動揺されていた。
 「六段は、一雄にとって大事な曲なのです。一雄の母がいつも自宅で演奏していました」と聞いて、私はとても恐縮した。動揺する私に「今度はせひ、一雄の部屋で演奏してください」と、慶人先生は優しい言葉をくださった。けれど、優しい言葉だけど、反対に私にとって重い約束になってしまったのだ。いつか演奏しにいかなきゃ…と思いながら、私のような演奏をリタイアした人間が弾く音で本当にいいのか?もっと、きちんとした演奏家に弾いてもらったほうがいいんじゃないのか?と、いつものようにグズグズとしてた。
 そんな私の背中を押してくれたのが吉田さんだった。
「先生のおかあさんだって演奏家だったわけじゃない。先生が欲しいのは立派な演奏家の音じゃないんじゃないのかなぁ。弾いてあげなよ。約束したんでしょう?」
 約束を果たしにでかけた上星川の家に、いつものとおり、吉田さんはカメラを抱えて座っていた。それは何か自然な姿で、家族のお祝いを記録する親戚の叔父さんみたいな姿で、そこにいた。その前にあったときとくらべるとずいぶん痩せていて、大好きなお酒もあまり口にしないので、ちょっと心配したけれど、「youtubeに自分がとった写真を使って、動く大野一雄先生の動画をあげてみたんだ」と、持参したコンピュータの動画を見せてくれたりと、いつもの吉田さんだった。
 その日はお客様が多くて、お祝いにいらっしゃったみなさんとの交流で、にぎやかな日だった。「特にお誕生会はしませんよ」と、アナウンスされていたけれど、前日から用意したという慶人さんの手作りの料理と、やってきたお客様をすべてあたかかく迎える空気があった。それが大野家だった。
 私は一雄先生の休まれている部屋で「六段」を弾いた。吉田さんはいつものように、写真を撮ってくれた。「またね。次にあうときまでに写真焼いておくよ」それが、いろいろな意味で、最後になるなんて思ってもみなかった。
 今回、大野一雄さんの訃報と共に、遅ればせながら、すでにこの春、吉田さんが他界されていたことを知った。まだ、吉田さんの大野一雄写真集、作ってないじゃない。まだ逝ちゃうの早すぎるよ。私、まだ、去年の誕生日の写真もらってないよ。と、いろいろと頭の中がいっぱいになったけれど、せめて、吉田さんの優しい視線の先にあった大野一雄さんとの日々をここに紹介したいと思った。こんな人に大野一雄さんは見守られていたのだと書き残しておきたい。
 吉田さんの写真を載せたいと思って、池上直哉さんからお借りした写真は、そんな吉田さんらしい、スナップだった。
 上星川の保育園では毎年のクリスマスに、一雄先生がサンタクロースになって訪問していたという。車椅子に乗ったサンタクロースと子供たちの交流。そんな場面でも、吉田さんは優しいまなざしで、いつものように写真を撮っていた。なんだか、涙がとまらなかった。

 吉田さんだけでなく、貴重な瞬間をおすそ分けしてくれる写真家さんたちに、大野一雄さんの声を思い出しながら、「サンキュー」の言葉を送りたいと思った。貴重な記憶を作品にしてもっと発表していただく企画をちゃんと形にしていかなくては、と残された私の宿題にさせていただこうと思う。(いわためぐみ)

 

★ TH業書に関して

http://www.a-third.com/th/etc/aboutth.html

 

TH 吉田隆一さんの記事
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